マルティン・ボルマンが構想した「ナチス再建計画」
第1章 マルティン・ボルマンが構想した「ナチス再建計画」
1945年11月、ナチス・ドイツの戦争責任を追及する為に連合軍が開いた「ニュルンベルク裁判」では、起訴されたA級罪の被疑者22名のうち、半数の11名が「A級罪を犯した」との有罪判決を受け、絞首刑を宣告された。「A級罪を犯した」との有罪判決を受け、絞首刑を宣告された者の中で、ただ1人逮捕を免れた大物がいる。 その人物はマルティン・ボルマンである。 マルティン・ボルマンは1945年5月1日に、ソ連軍に包囲されていたベルリンから忽然と姿を消した。 マルティン・ボルマンはヒトラー側近のナンバーワンであり、ドイツの敗北直前まで総統秘書長、且つ、副総統、且つ、ナチ党官房長として絶大な権力を振るっていた。 マルティン・ボルマンが握っていた権力は、ニュルンベルク裁判でA級罪の被疑者として起訴された22名が握っていた権力の中で最高のものだった。 優れた洞察力と並外れた現実感覚の持ち主であったマルティン・ボルマンは、ドイツ軍が1943年の「スターリングラードの攻防」でソ連軍に敗れると、この敗北を冷静に受け止め、いち早く、ナチス・ドイツの敗北を前提とする「戦後計画」に着手した。 ドイツ軍はスターリングラードでの敗北を境にして、凋落の一途をたどった。 ナチス・ドイツの敗北を予知したマルティン・ボルマンはナチスの莫大な財宝をドイツ国外に搬出・隠匿し、多くの優秀なナチ党員をドイツ本国から脱出させる作戦を練った。 ナチスの財宝は金(gold)75トン強、金以外の何トンにも及ぶ貴金属や宝石類、更に、真札・偽札を含め数十億ドル分の通貨から成っていた。 マルティン・ボルマンは、スターリングラードでの敗北の前年(1942年)にドイツの敗北を予測していた。 1942年の春、マルティン・ボルマンは I・G・ファルベン社のヘルマン・シュミッツ会長など、親しい財界人を一堂に集め、連合軍によって企業資産が接収される可能性の高いことを説き、「企業防衛策」を提示していた。 マルティン・ボルマンが提示した「企業防衛策」は、企業の流動資産をドイツ国外のドイツ企業に移し、連合軍の接収に備えるというものだった。 この会議の直後に、ドイツの大企業はドイツ国外の子会社に “隠匿資金” を振り込み始めた。 1944年だけで約10億ドルがドイツ国内のドイツ企業からドイツ国外の子会社に振り込まれたと見られている。 1944年の夏になると、マルティン・ボルマンは戦後に展開すべき「ナチス再建計画」を作成した。 これを要約すれば、次の通りである。
【1】 戦後、ナチスの組織をドイツ国外に建設する。
【2】 ナチスの莫大な財宝をドイツ国外におけるナチスの建設に必要な活動資金として使えるように、ナチスの莫大な財宝をドイツ国外に搬出し隠匿しておく。
【3】 ナチスの潤沢な資金をドイツ国内のドイツ企業に貸与し、そのドイツ企業をしてその貸与資金をドイツ国外の子会社に振り込ませ、戦後、その貸与資金をナチスへの政治献金の形で回収する。
【4】 ドイツ国内におけるナチスの再建の為に、戦争犯罪を問われる心配のないナチス下級幹部をドイツ企業内に潜伏させておく。
【5】 ナチスの再建に必要な記録文書、特に党員名簿や協力者名簿を隠匿しておく。
戦後、連合軍が押収した文書の中から「ナチス再建計画」の関連文書が発見された。 この文書は、1944年8月10日、ナチス指導部がシュトラスブルクの「メゾン・ルージュ・ホテル」にドイツ財界人を集めて開いた会議の議事録だった。 この会議には、ドイツ国防軍最高司令部の代表者と軍需省の代表者とが出席し、財界側からは「クルップ社」「メッサーシュミット社」「レックリング社」「ヘルマン・ゲーリング帝国工場」の代表者が出席した。 この会議の議事録は次のように述べている。「党の指導部は、その或る者が戦争犯罪を問われるだろうと予想している。 その為、ドイツの基幹産業は党の下級幹部を技術顧問として受け入れる準備を今からしておく必要がある。 党は、戦後に国外での党組織に献金するドイツ企業には巨額の資金を貸与する。 その見返りとして、党は、戦後に強大な新帝国を建設する為に、ドイツ企業に既に移された資産と今後移される資産とによる党組織への献金を必要とする」。 この議事録は、マルティン・ボルマンが構想した「ナチス再建計画」を受けたもので、「ドイツの基幹産業はナチスの下級幹部を採用せよ。 ナチスの資金を貸与する見返りに、戦後のナチスに政治献金せよ。 国外のナチス組織を支援せよ」という協力要請に他ならない。 また、同議事録によれば、この会議では、ドイツ降伏後の、連合国に対する経済戦争の準備、地下抵抗運動の準備などについても申し合わせている。
マルティン・ボルマンが構想した「ナチス再建計画」に従って、ナチス経済相ヒャルマー・シャハトは凡そ750社のドイツ企業をドイツ国外に移転させる任務に就いた。 ナチスは潤沢な党資金をドイツ国内のドイツ企業に貸与し、そのドイツ企業は想定される連合軍の接収から身を守る為に、自己資金とナチスからの貸与資金を“架空取引”の形で、ドイツ国外の子会社に振り込んだ。 この時、ドイツ国内のドイツ企業がどれほどの資金貸与を受け、また、どれほどの流動資産をドイツ国外に持ち出したかは不明である。 1946年に行なわれたアメリカ財務省の調査によると、スペインおよびポルトガルのドイツ企業200社、トルコのドイツ企業35社、アルゼンチンのドイツ企業98社、スイスのドイツ企業214社がドイツ国内の親会社から送金を受けたと言われる。 それらの資金の多くは西ドイツの独立後に西ドイツ国内の親会社に引き上げられ、戦後の西ドイツ経済復興に役立った。
ナチスが所有していた貴金属・宝石・美術品・記録文書はヨーロッパ各地や南アメリカなどに搬出され隠匿された。 ドイツ国外へ搬出されたナチスの財宝は、イタリアを経由したものと、スペインを経由したものとがあり、イタリア経由の搬出には「鷹の飛翔作戦」という暗号名が付けられ、スペイン経由の搬出には「火の島作戦」という暗号名が付けられていた。「火の島作戦」のルートは、ドイツからフランスを経由してスペインまでトラックで輸送し、カディス港から潜水艦(Uボート)により、アルゼンチンまで運ぶルートである。「火の島作戦」が実際に行なわれていたことについては、ナチスに好意的だったアルゼンチンのペロン大統領が1955年に失脚したのち、アルゼンチンの関係者によって裏付けられた。 ドイツからトラック輸送された財宝をスペインで受け取っていたのは、元スペイン大使と元アルゼンチン駐在海軍武官とドイツ系アルゼンチン人の3人である。 また、Uボートによって財宝が運び込まれたアルゼンチンのブエノスアイレスでは、ドイツ大使館が雇っていた情報員と某銀行幹部と中央銀行顧問とドイツ人牧畜業者が荷受人になっていた。
1945年、ドイツが連合軍によって包囲され、ドイツの敗北直前になると、イタリア経由・スペイン経由に代わって、フレンスブルクやキールの海軍基地からUボートで南アメリカに財宝を輸送する方法が編み出された。 その当時、ドイツは制海権と制空権とを失っていたが、ドイツは新型の「長距離輸送用潜水艦」を開発していた。 この長距離輸送用潜水艦は第二次世界大戦下のドイツ潜水艦技術の頂点に立つものであり、バッテリーが従来の3倍も持続するという驚異的なもので、水中でエンジンを始動でき、バッテリー充電もシュノーケルの採用で水中で行なうことが出来た。 当時の潜水艦の大多数は水中で速度が7ノットしか出なかったが、この新型潜水艦は水中で16ノットのスピードを出すことが出来た。 当時としては驚異的な水中性能を誇ったこの新型潜水艦は、戦後、アメリカ海軍のポラリス原子力潜水艦などにその技術が継承されたと言われている。 この新型潜水艦がどれほどのナチス資産を南アメリカに輸送したかは不明だが、ナチス・ドイツ降伏時の1945年5月7日に至るまで、輸送は継続していた。
ナチス・ドイツの敗北直前にヨーロッパを脱出し、無事にアルゼンチンに到着したUボートとして次のものがある。 ハインツ・シェファー大尉が艦長を務めるU-977号は4月初めにノルウェーを出発し、連合国の対潜哨戒網をかいくぐって、15週間後に無事アルゼンチンに到着した。 オットー・ヴェルムート大尉が艦長を務めるU-530号もアルゼンチンに辿り着いた。 イギリス人ジャーナリストのウィリアム・スチーブンソンによれば、消息不明を伝えられていたUボートのうち、U-34、U-239、U-547、U-957、U-1000など5隻が南アメリカに向かったと推測されている。 こうしたUボートの動きについて、アメリカ軍の戦略情報局(OSS)は次のように報告した。「ナチスのメンバー、ドイツの産業資本家、ドイツ陸軍はもはや勝利できないと知って、今度は戦後の産業計画を展開すべく、諸外国の通商部との友好を新たに固め、戦前の企業連合を復活させる計画に乗り換え始めた。 ドイツの技術者・文化人・秘密諜報員は経済的・文化的・政治的なつながりを広げる目的をもって諸外国に潜入する為の綿密なプランを持っている。 外国の企業や研究所はドイツの技術者や科学者を低賃金で雇い入れることが出来るだろう。 最新の専門学校ならびに研究施設建設の為のプランとドイツの資本とが極端に有利な条件で提供されよう。 それによってドイツ人は新兵器を設計し完成する為の絶好の機会を手に入れることになる」。
第2章 ドイツ空軍大佐ハンス・ウルリッヒ・ルーデル
「オデッサ」や「蜘蛛」を利用したナチス戦争犯罪被疑者は間もなく相互の団結によって身の安全を図ることになった。 その組織が「SS同志会」という国際組織である。 この「SS同志会」こそ、戦後にナチスを再建するというマルティン・ボルマンの構想を実現したものであると言えよう。 SS同志会についてサイモン・ヴィーゼンタールは次のように語る。「戦後ほどなくして、ナチス親衛隊の残党から成る“戦友組織”が南アメリカにあることを私は知った。 その設立者の1人はハンス・ウルリッヒ・ルーデル大佐である。 彼らは南アメリカのどの国でも、警察、政府、ドイツ大使館、オーストリア大使館、イタリア大使館、などと巧妙に結び付いている。 彼らは身の危険の情報が常に大使館筋から入ってくることを知っている」。 『戦争の余波』の著者ラディスラス・ファラゴも次のように述べている。「SS同志会はオデッサと同じような機能と規模を持った組織だった。 SS同志会はルーデル大佐がドイツ企業や金融界からかき集めた資金によって支えられていた」。
このハンス・ルーデル大佐は戦時中、ドイツ空軍のエース中のエースパイロットとして2530回の任務に服し、519台の敵戦車を撃破し、800台の装甲車・トラックを破壊し、150門の火砲を破壊し、9機の敵航空機を撃墜し、1941年にはソ連の戦艦「マラート」を撃沈する勲功を立て、1945年に「黄金柏葉剣ダイヤモンド騎士鉄十字章」を授与された。 ドイツにおいて、この勲章を授与されたのはハンス・ルーデル大佐のみである。 ハンス・ルーデル大佐は純粋な職業軍人であったので、どの国からも戦争犯罪を問われていなかったが、熱烈なヒトラー崇拝者であり、ナチス再建の意気に燃えていた。 第二次世界大戦後、ハンス・ルーデルはイタリアのローマに「シーメンス社」の販売代理店を設立し、スペインのマドリードに「マンネスマン製鋼社」の販売代理店を設立した。 (シーメンス社もマンネスマン製鋼社も、所謂「ヒトラー基金」に協賛していた基幹産業である)。 ハンス・ルーデルは「シーメンス社」の製品を売り込む為に世界中を飛び回り、旅の先々でナチス残党に遭遇した。 そして、ハンス・ルーデルは、旅先で遭遇したナチス残党に団結を呼びかけ、「SS同志会」を創設した。 そして、ハンス・ルーデルはネオナチ運動の国際的な代弁者となり、カトリック教会がSS同志会の創設に中心的な役割を果たしたことを高く評価し、カトリック教会を称賛した。 ハンス・ルーデルは次のように述べている。「あなたがたがカトリック教会をどう見ようが、それはあなたがたの自由である。 しかし、大戦直後の数年間に渡って、カトリック教会が、特に内部の特定の高位聖職者が我がドイツのエリートたちを救う為に、そして、しばしば死から救う為に、してくれたことを、我々は決して忘れない。 逃亡ルートの中継点となっていたローマでは極めて多くの手配がなされた。 カトリック教会は、その有り余る力を使って、我々が国外に出るのを助けてくれたのである。 復讐と懲罰を求める血に飢えた勝者の野望は、かくして静かに、しかも秘密裏に、打ち砕かれたのである」。
第3章 ナチス親衛隊中佐オットー・スコルツェニー
ナチス親衛隊中佐オットー・スコルツェニーは第二次世界大戦中、ヒトラーお気に入りのナチス親衛隊員として活躍し、ムッソリーニ救出で一躍有名になった。 また、彼は、連合国との講和を画策したハンガリーの独裁者ホルティ将軍を封じるため、ホルティ将軍の息子をブタペストの市内から、しかも白昼に誘拐する離れ業を演じた。 彼は、その機略と大胆さとで “ヨーロッパで最も危険な男” と言われた。 彼は1945年5月に逮捕され、2年間捕虜として収容されが、無罪判決を受けた。
SS同志会は本部をスペインのマドリードに置き、オットー・スコルツェニーがこれを運営した。 SS同志会のメンバーは、戦後、事業家として働いていた者が多かった。 例えば、ハンス・ルーデルはシーメンス社の電機製品を南アメリカで販売する仕事に携わっていた。 オットー・スコルツェニーはマンネスマン製鋼社の販売代理店を経営していた。 アイヒマンの部下だったエーリッヒ・ラジャコヴィッチはラジャという偽名で銀行をそっくり買収し、イタリアの銀行家になりすましていた。 トレブリンカ強制収容所(ワルシャワ中心部から北東90kmにあった強制収容所)の所長フランツ・シュタングルは、南アメリカに逃げる前に、逃亡先のシリアで既に事業家として成功していた。 このように、SS同志会は国際的な事業家クラブでもあった。
ナチス残党の事業家たちは互いに業務提携しており、取り引きのみならず、借款などの契約を結んだり、ドイツ企業と南アメリカの各国政府との交渉の仲介役を務めたりしていた。 イギリス人ジャーナリストのウィリアム・スチーブンソンは、南アメリカにおけるナチス関係者の事業活動を要約して、次のように述べている。「借款団はSS同志会の為の金融取引を含んでいる。 その支店網はラテンアメリカ諸国のすべての首都に設けられており、信頼できる幹部によって、ペルーの首都リマから指揮されている。 フランスから戦争犯罪人として死刑を宣告されているクラウス・バルビー、ヒトラーのボディーガードだったオットー・スコルツェニーの部下だったハバナ人アドルク・フントハムマー、製鉄所の持ち主オスカー・オプリスト、マルティン・ボルマンの従僕ヘルンツ・アシュバッハーなどが幹事役となっている」。 SS同志会は世界中に張り巡らされた武器密輸網・麻薬密輸網の形成に重要な役割を果たすようになった。 SS同志会は実に22ヶ国にまたがり、その会員数は10万名に及んだという。
オットー・スコルツェニーはゲーレン機関からの要請を受けて、エジプト治安部隊の訓練計画に参加したこともある。 訓練の為に100人のドイツ人から成る軍事顧問団がエジプトに送り込まれた。 その中には元ナチス親衛隊員や元ナチ党員がかなり含まれていた。 その軍事顧問団の団長はロンメル将軍の参謀からナチス親衛隊の司令官に抜擢されたヴィルヘルム・ファルンバッハーであった。 エジプトのガメル・アブデル・ナセルはオットー・スコルツェニーと元ナチス親衛隊員との手助けでエジプト大統領の座に就いた。 初期のパレスチナ・テロ・グループもオットー・スコルツェニーによる訓練を受けた。 因みに、エジプトの宣伝省には、ドイツ宣伝大臣ゲッベルスの部下だったフォン・レールス博士のスタッフが反ユダヤキャンペーンの手腕を買われて雇われていた。
オットー・スコルツェニーの手腕、その非凡な組織力を狙って、いろいろな人物が彼に接近した。 例えば、スペインの独裁者フランコ将軍はオットー・スコルツェニーを信頼し、彼をしてスペイン情報部に訓練を施させ、スペイン陸軍大学で軍事論を講義させた。 1953年になると、オットー・スコルツェニーはCIA長官アレン・ウェルシュ・ダレスに懇願されて、エジプト警察の設立を担当した。